いつも笑ったような顔をした人が職場を去った。心のなかで私が「卵ヘッド」と呼んでいた人だった。本人は当然自分が「卵ヘッド氏」だとは知らない。
送別会も餞別もいらない、自分が辞めることをできるだけ人には知られずにいなくなりたいという希望を告げられ、なんでそんな話を私にしてくるんだろうと思いながらも「そういうのが嫌で嫌で」その気持はよくわかる気がする。ちょっとした同族意識を持っていてくれていたんだと思う。
「ェ自分が担当していた仕事の申し送り用ファイルを作成したので、しばらくの間クラウド共有するから、ェ足りないところがあれば指摘してほしい」と一方的にお願いをされた。1秒で「嫌です、断ります」と答えたが、いつものように笑いながら、
「はいはい。ェそれで…」
パスワードと、どこにでもありそうな名前のフォルダのアドレス(場所)をふせんに書いたものを私の服の上にそっと貼った。
ふせんをクシャクシャに丸めてゴミ箱に投げたいなと一瞬思いながらも、大人かつ社会人なので、そこはふせん貼られ人間の立場を受け入れた。よくできた人間だと褒められる機会もなく過ぎ忘れてしまうことなので、書きながらこれはどうかとは思うが記しておく。
準備されたファイルには、作業の流れや注意点などが丁寧に説明されており、自分が関わっている仕事に関しては「こんなに複雑な内容だったっけ」と驚き、直接的に関与していない仕事に関しては、一度も触ったことはないけれど概要がよく分かるような内容だった。
とても残念だった。私はこの仕事を引き継がないし(確実に何%かは回ってきそうではあるが)、大半は卵ヘッド氏がいなくなったあとは、誰も担当することのない失われた文明としてひっそり消えていくことがわかっていたからである。
人の作業を楽にしたり、古いシステムやデータから、新しいものに切り替える手助けや調整をするのが卵ヘッド氏の持ち味であり、仕事の中では 「なにをしているのかよくわからない」という感じは職場の中ではあった。
私には多少その概要は理解できたが、全く理解されずに「あ、壊れた」「またおかしくなった」などと、便利になったことが通常の状態だと感じる人に要求され、無残に書き換えられてしまったものを死んだ顔でもくもくと修復している姿は遠目につらそうに見えた。
たまに声をかけられると、その度にいつもの笑顔で対応していたので、「この人はよくできた人だなぁ」と私は感心していた。
ほとほと嫌になってしまったんだろう。適当なぐらいじゃないと、なかなか当たりがきつい人たちの生き残りゲームのような職場では、ただただすり減っていくしかない。軽くモンスター感がないと、やられてばっかりでライフが削られ、頭から煙が出てきてしまう。
(言葉には出さなかったけれど)おつかれさま。転職おめでとうと私は思った。
しかし、その後に聞いてもないのに話してくれた内容がよくわからなかった。
「ェ…肉屋、次はお肉屋さんになるんですよ」と別段変わったことを言うでもないトーンで言い放った。
お肉ってアレかな。販売員になってお肉を切ったり売ったりするのか、それとも配送会社のようなところに行きシステム的なことをやるのか… 高級な肉を扱う専門的な所なのか… それにしても畑が違うにしてもかなり異分野すぎる…
まぁ、それは答えを知ることはもうないからよしとするとして、私が卵ヘッド氏と心の中ニックネームをつけていたのは、彼が会話をする時にいつも、なぜか言葉の前に声にならないような音で「…ェッ… 今回の件ですが… ェッ…」という、謎の無声でもないような無声音的なものを発していただけ、ただのそれだけである。
私はその音を聞くたびに、悪いことかなとは思いながらも、「ェッ」という音のたび「グ」「グ」と(心の中で)合いの手を入れてしまっていたという、ほんとうにどうしようもない話。
そして「グ」だけが残った。(うまいことなんていうつもりはないと開き直りながら)